厚生省「体力手帳」

小学3年の時、縁側で兄達が、庭の枇杷の実がもうそろそろ食べられるかどうか相談しているのを聞いて、その日の内に枇杷の実を全部一人で食べてしまった。
青い枇杷の実には毒があるという。高温にうなされ、近くの医者がきて、危篤状態という。
それ以来、医者にはかからないことにした。
(母の油画)

戦後の小学校は教員不足で、担任の先生は、低学年時が18歳、高学年時が保健婦の代用教員であった。

中学3年のとき、父が死んだ。なんとなく滑稽で、お通夜のお酒で酔っ払ってしまった。
住込みの書生が、柿を食べれば酔いがさめるというので、庭の柿の実を暗闇で沢山食べた。
それ以来、柿があると、食べずにはいられない。
それが供養の行為であると気が付いたのは、父の年令になってからのことである。
レイモンド建築設計事務所の父)
(法廷服の父)

中学校の時には、シベリア抑留帰りの先生が尊敬されていて、教室の外の、右翼と日教組の宣伝車がうるさかった。

父は自由業の弁護士であったが、選挙に連続落選した後の急死であったので、とたんに家庭経済は破綻した。 日本育英会の特別奨学生を受験し、自活を目指して広尾高校山岳部 に入部、年間100日を山で暮らす。自然放浪のあと、都市浮浪となるが、歳の瀬の寒さに耐えられず1年間で断念、自活生計をめざして多摩美を受験する。
(フォークダンスの時間/裸足の異邦人)

-2003 私の多摩美術大学 在学50年史

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